~ 「在野」に寄せて~
遠く来て途なお半ば
いま再びの青雲の意気
畏友藤本君は再び雌伏しているが、地方政治家として、福岡発展への情熱はなお盛んである。その見識、的確な判断力、決断力、行動力は健在である。
人はかかる時にこそ、その真価が明らかとなる。これぞ不屈の人藤本君に与えられた天命であろうか。
ここに、かつて藤本君が意を得ず雌伏していた時藤本君の主宰する小冊子「在野」にわたくしが寄せんとした拙文がある。同窓であるわたくしが彼の人となりを紹介せんとしたものであったが、訳あって長らく文箱に眠っていたものである。
藤本君の人生を貫く思想信条、その誠意と情熱の人となりを今さらではあるが、「在野」の読者、支援者の皆さまに知っていただきたく思い、かつての拙文を寄せて、藤本君にエールを送る次第である。だきたく思い、かつての拙文を寄せて、藤本君にエールを送る次第である。
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藤本君の主宰する「在野」は小冊子ながらなかなか堅い。そこで藤本君の人となりに関わる多少柔らかい逸話を読者への慰みにと思い立ち拙文を寄せる次第である。もとより想い出を語るには我々は若過ぎるのだが、そこは閑話、藤本君にとっても票には繋がらぬ閑話である。
我々は早稲田の同窓である。実に昵懇であったが、彼は私にとってむしろ畏友と言うのが相応しい。私の海外生活が長くなって心ならずもやや疎遠となっていたのだが、一時帰国の折に福岡を訪れた。藤本君が意を得ず雌伏していると聞いたからである。
友諠に厚い人柄のまま、自ら空港に出迎えてくれた藤本君の顔はと見れば歴戦の古豪のごとき風貌であって、双眸には気魂が窺えて私はともかく安堵した。
・未来の光の見えた時代
我々が入学した昭和40年は顧みるに、戦後の大きな転換点であったと思われる。若い読者のために多少触れると、前年には国民的悲願であった東京オリンピックが成功裡に終わり、日本の国際的地位向上に大いに寄与した。
日本経済は今にして思えば、長期高度成長のただ中にあった。我々の祖父母から父母の世代の功績である。大正生まれよりむしろ明治生まれが各界の中枢に在って何やら明治という偉大な時代の余光が感じられ、何より未来への希望があった。国民は物質的生活の向上を希って経済活動に努力した時代である。
しかし、これより10年程の中、世代の交代と共に国民の精神、価値観が大きく変化するのである。経済発展こそ幸福を実現するという「錦の御旗」の下、それは一面正しかったのではあるが、うかつにも失われた物の重大さに気づくのは、ずっと後のことであった。
この時代はまた、教育界、学会、言論界が共産主義への幻想の色濃い風潮の中にあり、その悪弊は今日に及んでいる。昭和40年は、経済発展の踊り場ともいうべき年で、オリンピック特需の好景気の反動で一時的に深刻な不況に陥っていた。山一證券が破綻に瀕して日銀の特別融資で救済されたのはこの時である。
・際立った個性と強い印象
藤本君の初印象はと言えば、日蓮宗の僧侶が学生服を着た風情とでも称すべきか。まずもって言う事が奮っていた。「見た処、余り骨の有る奴は居らんな。貴様は少しは見所がある。どうだ今度一献やらんか」と言うものであった。酒を飲まなかった私は、それから一献どころか百献も付き合うこととなった。
彼はしかし意外や、多読連読の能があり、大意を汲むのが早くまた博識であった。物事の大小を的確に弁別し、枝葉を捨象して根幹を見抜く能力に長けていた。議論においても論点が明確で直截、鉈で断つ風であった。行動力は抜群で、しかも行動の中で考え速断する。これは彼が意識して努めているらしかった。
吉永小百合という女優が同じ年に入学して話題となった。たまたまキャンパスを歩いていたが、皆気づいてはいるが敬遠している。すると藤本君、さっさと歩み寄って暫し何やら話していたが、やがて戻ってきた。少々緊張の面持ちである。我々は藤本君でも緊張するらしいと妙に感心したものだ。吉永小百合の眼差しは独特のものであったらしい。多分、藤本君は女性が苦手でもあったのだろう。
大学一年の新学期は桜に気もそぞろ、学園祭に浮かれ、早慶戦に熱狂して乱暴狼藉、正気に返れば学期は終わりである。
この夏は二人で京都・奈良を巡り、福岡ではご両親に大変良くして頂いた。父上は戦時中は陸軍の技術将校で中島飛行機に配属されて、戦闘機の開発にあたっておられたとの事であったが、実に意気軒昂、雄弁な人であった。母上は控え目であるが、機知に溢れた品の良い方で、藤本君とは全然似ていない印象を受けた。
世の中には親に似ない子もいるのだと思ったものだ。こういうのを鬼子と言うのかも知れないと観察すると、藤本君は父親似であった。
・学園紛争・藤本君の雄弁
浩然の気は充分養った。さて秋の学期より勉学に勤しまんと思い立った折、大学の学費値上げ方針の提示にたちまち学内は不穏となった。活動家の主導で全学ストライキへの動きが急となり、戦前の主戦論もかく在りなんの勇ましい声が良識派の声を搔き消した。藤本君も私も反対の立場であったが奔流の中、抵抗空しく何時しか全学部学生投票で「スト権」なるものが「成立」したとしてストライキに突入、約6か月の学園封鎖となった。世に言う早稲田騒動である。これより数年全国に燎原の火のごとき様相を呈した学園騒動の嚆矢であった。
年が明けて懸念されたのは卒業試験、そして入試であったが、結局入試は学外で行われるという前代未聞の事態となった。事態を打開すべく我々も含め、一部学生が時々会合して対策を話し合ったが、ストを打破する勢力とはならない。
ある時、業を煮やした藤本君と私は中核派と革マルの立看板を木刀で叩き毀した。たちまち革マルの面々に取り囲まれ、彼らの集会に連行された。「反動学生」を「自己批判」させる。つまり吊し上げである。
しかし藤本君は動ぜず、堂々と学生の本分を説き、ストの不法性そしてこれが学の独立とも学園の自治とも無縁の暴挙であると鋭く論難した。その雄弁は一時彼等を沈黙せしめた。共鳴する聴衆の中での演説は難しくはないが、敵中卑劣な野次の中、反対論を貫くのは誰にも出来る事ではない。私が藤本君を畏友と呼ぶ所以である。
この後しばらくして反対派学生の力が強まり、またかつてはストに同調した学生も不毛のストに飽いて現実を見る様に変わった。スト派は急速に力を失って各学部ごとに自壊して行った。政経学部に拠った全学共闘の本部も学生に包囲され、ストは終息した。
・新宿のライオン河野義一氏のこと
このストが終息した後、私が思う処あって書生として修行するなどと言い出した。当ては無いが強いて言えば政治家か資産家である。友諠に厚い藤本君、善は急げとばかり、渋谷区の高級住宅街を歩き回った。神宮前近くに大層立派な構えの家が在った。中を窺うと良く手入れされた趣のある庭園に枝振りの良い松を配し、池には錦鯉が遊んでいる。車庫には当時珍しいジャガーがある。これぞ我々の捜し求めた理想の佇まいではないか。表札には河野義一とある。政治家の河野一郎の身内か、しかし義一という兄弟はいたか等々勝手な想像を巡らせながら勝手口より使用人に取次を頼んだ。妙齢の夫人が現れたので用向きを申し出ると、主人は不在なもので改めて来るようにと、日を指定してくれた。
約束の日、先方の何者かを知らずに我々は乗り込んだ。少なくともそう言う気分であった。これが武蔵野興業(東証二部上場)を一代で築いた河野義一氏、愛子夫人との初対面であった。百戦錬磨の古強者とはかかる人物を言うのかと、その迫力に私は内心怯んだ。傍らに微笑む夫人はと見れば、これが女傑である。こちらは、こんな恐ろしい親爺のそばで書生なぞ御免蒙る気持ちであったが、藤本君は、これほどの家を構えるからには然るべき社会的地位の人物、名の有る人物に違いない、とすれば書生の一人や二人養うのは当然の社会的責任である等々、この怖い親爺相手に長口舌を奮うではないか。親爺は大した度量で若造の勝手な理屈を面白そうに聞いている。戦後の混乱期、朝鮮人等の横暴、跳梁の時代に生命を的にこれに対抗して孤塁を守り「新宿のライオン」と異名を取った人物である。肝が据わって器が違っていた。
結局、書生の件は幸いにも流れたが、藤本君はご夫妻から当節気骨の有る奴と気に入られて、以降会社と自宅に出入りするようになった。私も一緒に出掛けては、家、庭の掃除やら神宮前の直営レストランでの手伝い等で多少お役に立った。藤本君は縁を大切にする人で、学生時代持前の行動力で色々と名の有る人と知り合いになり、それを自分の心の糧としたのではないかと思う。
・鬼の霍乱
さて、さしもの壮健を誇る藤本君も「大病」を患う事と相成った。一種の熱病であるから、鬼の霍乱とでも喩えれば良いのだろうか。見染めた相手は国立音楽大学の学生で、同郷の人である。至誠天に通ずの信念の藤本君である。この信念や良し、押しに押した。我々も及ばずながら協力した。
実に紆余曲折はあったが、至誠は彼女には兎も角、天には通じたらしい。身を持する事堅固な彼女も最早逃れられぬ運命と観念して、結婚を約したのであった。かくて、藤本君の人生の大業の一つは成った。これが今日の賢夫人と評判の真己子さん、その人である。この件甚だデリケートにして深くプライバシーに関わる事柄である。よって詳述出来ないのがさながら隔靴掻痒の感である。
・福沢諭吉の反骨と藤本君
藤本君の思想の根底に在るものを考える事は、あたかも尺取虫が大樹を測るのにも似ている。尺取虫とは無論、私である。
思うに反骨の精神を底流させた保守主義の正道である。思想の深まり広がりはあろうが自由と自主独立を重んずる個人主義に立脚している点は青年時代より一貫している筈である。
藤本君は日本の文化・伝統を重んじつつも、国際的視野をもって自由民主主義の正道を歩み続けている。彼が連読多読である事は述べた。学生時代から多くの思想に触れ、思索を重ねたことと思う。
私見では藤本君の思想の根幹に、またその生き方の信念に大きな影響を与えているのは福沢諭吉ではないかと思うがどうであろうか。福沢は西洋文明の本質を理解した先覚的知識人である。反骨は早稲田の専売ではない。福沢は終生在野の反骨の人であった。西郷南洲の反抗の志を多とし、勝海舟と榎本武揚を武士の風上に置けぬ変節者と厳しく論難し続けた人である。
福沢と大隈重信との因縁は自由民権と国会開設の歴史を見る時、はなはだ深いことが知られる。
明治14年の政変とて、伊藤博文、井上馨、黒田清隆、等の薩長閥が国会の早期開設論であった大隈参議を失脚せしめ、反薩長閥の与党の佐野常民、前島密、河野敏鎌、小野梓、犬養毅、尾崎行雄等政府要人を下野せしめた事変である。累は福沢と義塾に及び慶応出身者はことごとく官界を逐われ、今日に至る帝大閥の官界独占の悪弊、禍根が扶植された。
しかしこの政変無くば、民権運動の高揚なく、早期の国会開設無く、また早稲田の建学はなかった。当然、政府と軍の要職は主に長州閥の掌握することとなり昭和に至る禍根を残したこと、我々の歴史より学ぶことである。
藤本君がよく引用する言葉がある。
即ち「一身独立して一国独立す」と。また重ねて言う。「独立の気力無き者は国を思うこと深切ならず」と。この言葉は、欧米帝国主義のアジア侵略の脅威が日本に迫り来る時代に、日本人への自覚を促す言葉であった。この点において今日でも、日本人とヨーロッパ人は異なるのである。経済繁栄の果実を食っている中に、我々日本人は民族の誇り、独立の気概を失いつつある様に見える。文化と歴史の喪失は国家の衰退を招く。国際化の時代に強く問われるのは自立心とアイデンティティなのである。福沢の言葉は今日的意義を持っている。藤本君とて同じ思いではないだろうか。
・畏友藤本君に望むこと
私はかねてより藤本君こそ国政の場で然るべき役割を果たすに足る人物と考え期待していた。しかし彼の情誼に厚い性格のこと故、事情あって政治活動に入るのが遅れたようだ。私はこの心の憾みを彼に向けてみた。彼は私の言う処を明確に否定して、地方政治こそ実にやり甲斐が有ると言った。私は自分の不明を愧じた。
藤本君は置かれた立場で、常に積極的思考で最大限の努力をする人である。私の福岡滞在中垣間見た処、彼は各役所をはじめ、多方面の人々と接触して地元の繁栄のために努力しているようだ。
私はベルギーに住んでいるのだが、西欧諸国では地方の自立色が強く、中央と地方の格差が小さい。日本では、未だ地方のインフラ整備が遅れ、地方都市の機能が弱い。地方財政があまりに中央に依存しては当然地方の自立はない。地方が自立して繁栄していなければ国家の真の繁栄もないのだ。
藤本君は大きなヴィジョンを描く人であるから不要の言であろうが、一福岡の繫栄ではなく全九州の繁栄を視野に置いて貰いたい。
藤本君の一層の奮起と躍進を望みつつ、閑話の筆をおく。
ベルギー、アントワープにて
宮園博明
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徳川三代の将軍に仕えた「黒衣の宰相」天海は齢90にして上野の寛永寺を建立、意気はいよいよ盛んであった。
不撓不屈の藤本君、いまは雌伏しているが、君よ天海のごとくあれと、望む次第である。